「いまの学生のなかには、実験の過程で教科書と違う結果が出てくると、
『実験のやり方を間違えた』と言って、その結果を改ざんして持って来る者がいる。
昔、我々の時代には、違う結果が出てこようものなら、
『やった!新しい結果が出てきたぞ!』と、それが新発見につながるかもしれないというんで、
たちまち舞い上がったものですが…」―元東北大学総長。
ここには、新しいものを見つけ出そう、不思議を探ろうという学び本来の姿勢は皆無です。
あらかじめ用意された答えに効率よく到達するテクニックとパターンだけを指導された“受験エリート”たちの、なれの果てです。
では、どうすればよいのでしょうか?
一言でいうと、“教えすぎ”をやめることです。辛抱することです。そう、
教え惜しむべきなのです。
特に進学塾と名の付く教育機関は、良かれと思ってではありましょうが、総じて“教えすぎ”です。
手っ取り早く答えにたどりつく見事な解法を手取り足取りさっさと教えてしまいます。
子どもから考える機会を奪っているのです。なぜそうなってしまうのでしょう?
合格という結果を求められるプレッシャー、子どもたちの適性や成長曲線に関わらず、6年生の2月1日までに“合格力”をつけなければならないプレッシャー、
模試の成績による一喜一憂、校舎間の競争、
そして、思春期にさしかかる子どもたちが起こす想定外の心の変化…理由はいくつでも挙げられます。
しかし、これらは言い訳にはなりません。自戒も込めて厳しく言うなら、すべては、子どものためではなく、指導者が自分のためにやっていることですから。
こんな環境で勉強をした子どもは、自律している一部の子を除いて、主体性を失います。ミスを恐れるようになります。
「マニュアル人間」「指示待ち人間」予備軍が多数生まれるようになります。
お子様の合格は、お子様の手柄です。そして、それを一番近くで見守られたご家庭のものです。塾の“先生”のものではありません。
塾の“先生”はあくまでもサポーター。決してフィールドプレーヤーではないのです。
ですから、わたしは教え惜しみます。
子どもの先回りはしません。ヘルプしません。サポートに徹します。
身のまわりのことに自ら関心を持ち、自ら知識を活用し、
自分流の発想や調査を行える子になってほしい親御様。
自らを表現でき、かつ、他者を理解することもできる力をつけさせたい親御様。
その入口に設けられた「受験」という波に、ただ呑まれてしまうのか、
それともうまく乗りこなすのか?
何があっても溺れないよう安易に浮き輪をたくさん用意してしまうのか、
それとも、泳ぎ方を教えるのか?
人生の波は、子どもたちに幾度もやってきます。
学びを通して、お子様が泳ぎ方を覚え、自律への一歩を踏み出し、更なる学びの力を身に着けられるよう願うのみです。